中国の民主活動家、劉暁波氏がノーベル平和賞を受賞したそうですね。
これは国際社会から中国への痛烈なメッセージだと言えますが、このニュースを聞いて私は劉少奇氏の事を思い出しました。
文化大革命の中で非業の死を遂げた氏と、現在投獄中の劉暁波氏が重なって見えたからでしょうか。
恐ろしい話ですが、今の中国共産党の中枢を担っているのは、当時、紅衛兵として党幹部や自分の親までをも”革命”の名の下に粛清した世代だと言われています。
文化大革命では数百万人から1000万人以上が犠牲になりました。
翻って我国の中枢を担う世代の中には、いわゆる全共闘世代と呼ばれる人達がいます。
ほぼ同時期に両国で起きた”革命”に染まった世代が、今の両国の政権運営を担っているのは皮肉な事でもあり、同時にあの時代から続く一本の血塗られた鎖のようなものを感じずに入られません。
事実、某長官は度々この文化大革命を引き合いに出し、時には賞賛しているかのような発言をする事でも有名です。
仮にイデオロギー以前の問題としても、多感な少年期や青年期を革命や粛清などと言う血なまぐさい活動に日々明け暮れた人々がまともな大人に育つとは思えないので、果たして両国の”この世代”にまともな国家運営が可能なのか疑問に思うのです。
– 劉暁波氏と劉少奇氏 –
かつて中国共産党のナンバー2であった劉少奇氏は暖房もないコンクリートむき出しの倉庫部屋に幽閉され、1969年の11月12日に亡くなりました。
たしかに時代は変わりましたが、こうやって考えてみると”人”が変わっていないのが今の中国だと言う事がわかります。
そして、悲しいかな今の日本も、歪んだイデオロギーに取り付かれた40年前の亡霊が国家の中枢にいるのです。
劉暁波氏が無事に釈放され、中国の民主化が進む事を願いつつも、劉少奇氏の悲劇を起こした中国と言う国の姿を忘れてはいけないと思いました。
と、ニートなくせに国士気取りで一丁前な事を言うネトウヨ的な書き出しで始まりましたが、ここはビデオ製作の記録を綴るBlogです(´ー`)サーセン
さて、前回の続きです。
そもそも8月7日のあの日、坂井三郎さんはV-103に乗っていたのか?
結論から言いますと「確実に乗っていたとは言えない」と言うのが正解だと思います。
やはり証拠が乏しいです。
例えるなら”推定無罪”と言ったところでしょうか・・・
言い切るには有力な証拠が必要ですが、残念ながら有力な証拠はまだ出てきてはいません。
ただし、現時点においてもっとも有力な説であるのは間違いないでしょう。
まず、諸説あるこの日の搭乗機を整理すると・・・
・ヘンリー・サカイダ氏はV-128説。
・渡辺洋二氏はV-138説。
・大空のサムライに掲載された鈴木画伯の絵画ではV103となっています。
・坂井さん自身はV-103に乗っていたと言っています。
それならV-103で決まりじゃないかと思うわけですが、1993年に海の向こうから新事実がもたらされます。
– V-103が発見された場所と思われる湿地帯 –
Pacific Wrecksによると、1993年にガダルカナル島ヘンダーソン基地の東5マイルの地点にある湿地帯にできたクレーターの中で、一機の零戦が水につかった状態で発見されたそうです。
その機体の垂直尾翼にはV-103と書かれてあったそうです。
– 発見されたV-103を再現したイラスト –
※原文まま
”A 15cm red diagonal strip of a Shotai leader was painted on the fuselage. Also a white strip 10cm on the tail above the number. Painted in a overall gray color with a black cowl”
なんと!このV-103は青帯ではなく、赤帯を背負っていたそうです。
肝心の赤帯が映った写真を発見する事は出来ませんでしたが、1994年に放送されたNHKのドキュメンタリー番組の中では映っていたのでしょうか。
– 機体の破損状況とは裏腹に、意外と色鮮やかな日の丸の姿に涙 –
製造番号3647の三菱製だったそうで、インドネシアで乗っていた例のV-103の製造番号が判れば同じ機体だったかどうかも判りますが・・・
それにしても( ´・_・`)
通説では”青帯”と言われていたV-103が、いきなり「赤帯です」と言われても個人的には物凄く違和感を感じるわけですよ。
そう、それは「実はティラノサウルスの全身は毛に覆われていました」と聞いた時のあの違和感にも似たなんとも釈然としない思いなのだ。
ここでまた納得する為の勝手な妄想をすると・・・
大空のサムライを読むと8月7日のあの日、坂井さんは笹井中隊の第二小隊長として出撃したとあります。
さらに、加藤寛一朗(著)零戦の秘術を読むと、午後一時ごろに太陽を背にしてグラマンが襲って来たとあります。
この戦闘で坂井さんは列機とはぐれてしまいます。
坂井さんはその事を中隊長に報告するべく”青い二本線を胴体にまいた”笹井中隊長機に近づいて行ったと、大空のサムライには書かれています。
”青い二本線”
残念ながら、この線の色の正確な意味や本数による違いを私は知りません。
しかしながら、同じ中隊であれば同じ色と考えるのが自然な事だと思いますし、二本が中隊長で一本が小隊長と考えるのも自然な事だと言えるのではないでしょうか。
※余談ですが、大日本絵画発行の”エアロ・ディテール 7 三菱 零式艦上戦闘機”を見ると、本田敏秋三等飛行兵曹の搭乗機のイラストがありまして、この機体にも青帯が一本描かれています。
なので、中隊長が二本で小隊長が一本とは言い切れないかもしれません。
本田敏秋さんは坂井さんの2番機として有名な方です。
因みにこのイラストに描かれた本田機の機体番号は”白文字に赤フチ”でV-126と書かれていて、インドネシアで乗っていた物のようです。
ここでまた妄想すると、インドネシア時代の機体には全て青帯が描かれていて、ソロモンではリーダーのみ青帯を付けたのではないでしょうか。
ここはひとつロービジ化という事で手打ちに・・・(゚Д゚)ハァ?
話を戻します。
いくつかの戦闘を経たあと、残念ながら坂井さんは8機のドーントレスに撃たれてしまい、約5時間かけてラバウルに戻ります。
が、瀕死の重傷とはいえ4時間47分も飛べたわけですから、機体そのものには致命的な破損は無かったと考えられます。
つまり、廃棄する事無く修理後に復帰したと考えるのが妥当だと思います。
もし、別の中隊にこの機が割り当てられたとしたら、青帯を赤帯に変えたとしてもおかしく無いのではないでしょうか。
この機は、8月7日から10月25日までの間に撃墜された可能性があるそうです。
搭乗員の遺骨も発見されたそうですが、今現在も身元は判っていないようです。
可能性のある7人の名前が載っていましたので原文のままで記載します。
Kenichi Kumagai (KIA, August 26, 1942)
Takeichi Kokubu (KIA September 2, 1942)
Toraichi Takatsuka (KIA September 13, 1942)
Noboru Sato (KIA September 13, 1942)
Yoshifusa Iwasaka (KIA October 15, 1942)
Yozou Sugawara (KIA October 18, 1942)
Isao Ito (KIA November 12, 19423)
いずれにせよ、この7人の日本人が、遠い異国の地で亡くなった事だけは紛れも無い事実なのです。
– 無残な姿の零戦。発見してくれた方々に感謝 –
ちょっと長くなってしまったのでこの続きはまた次回にしようと思っていますが、最後に一つだけ書きます。
丁度この事を調べていた時にフィリピンでの旧日本軍軍人の遺骨収集事業の事が話題になっていました。
報道の全てが正しいかどうか判りませんが、番組を見た限りでは某NPO法人のずさんなやり方に憤りを覚えた方もいたと思います。
非営利団体とは言え、厚労省が計上したこの事業の予算は4000万円を超えるそうです。
もし、金の為に偽の遺骨と知りながら収集しているのであれば、戦争中に祖国の為に戦って亡くなった日本人や、遺骨の帰りを心待ちにしている遺族の方々に対してあまりにも失礼ではないでしょうか。
また、金になるからとの理由から、現地人により盗掘されたフィリピン人の遺骨も少なくないと聞きます。
これはフィリピンの方々へも多大な迷惑を掛けている事にもなります。
まるで時代の流れに押し流されたかのように、日本人の心の中から死者への畏敬の念が無くなりつつあるのでしょうか。
親の年金目当てに死亡届を出さず遺体を放置した件といい、今回のこの問題といい、今こそ日本人の倫理観を考え直す良い機会なのかもしれません。
民間に丸投げの国と、金の為に死者の亡骸に群がる民間という図式が仮にあるのだとしたら、この国は随分とくだらない国に成り果ててしまったと言わざるを得ないと思います。
– V-103と一緒に発見された拳銃 –