2013年 6月 3日 の記事

Reach For The Sky

ちょっと前からなんですが油絵を再開したりしてまして、今日は画材を買いに横浜界隈をウロウロしてきました。
梅雨の中休みと言うか、先日梅雨入りしたばかりですが、昨日今日と朝から清清しい一日でしたね。
お目当ての画材も買えたし、横浜界隈をブラブラできたので良い一日でした。

実は子供の頃にお絵かき教室に通っていまして、その時に油絵をチョコっと習った程度なので我流の極みなんですけどね。
デッサンは苦手と言うか、かなり下手なので、そういったデッサン力を必要とされるような絵は描きません。
模写とか出来る人ってホント尊敬しますね。

当時、私が通っていたお絵かき教室にはおばぁちゃん先生がいまして、そのおばぁちゃん先生が凄く優しかったのを覚えています。
私が変テコな絵を描いてもいつも褒めてくれたんですよね。
他の若い先生達からは、たぶん”変な子”って思われてたと思うんですけど、そのおばぁちゃん先生だけはいつも褒めてくれました。

ある夏の日の話なんですが、その日は「夏の思い出」をテーマに絵を描く事になったんです。
他の子達も夏休みに遊びに行った海や山などを描いてまして、私も海の絵を描いてました。

白い砂浜に青い海。
カモメが飛び交う晴れ渡った青空には入道雲がモクモクと描かれ、遠くの海にはヨットが行き交う・・・そんな普通の絵でした。
それを見た若い先生の一人が安心したような笑顔を浮かべながら私の頭を撫でて行きました。

でも、その笑顔は長続きしませんでした。

なぜなら、完成した絵にはサメに襲われる海水浴客が描かれていたからです。
それでもおばぁちゃん先生は褒めてくれました。
カモメが飛び交う青い空と、血で赤く染まった海との対比が素晴らしいと褒めてくれました。

私が夏休みに映画JAWSを観たのだと言うと、おばぁちゃん先生は納得してくれました。
私はおばぁちゃん先生にJAWSのDVDを貸してあげました。
怖がりのおばぁちゃん先生的には、たぶんものすごく迷惑な話だったかもしれませんが・・・

そんな事を思い出しながら横浜の街をブラブラした一日でした。

Jaws bite Spielberg
– 若き日のスピルバーグ – JAWSは私に最も影響を与えた映画のひとつ –

さて、先日のGerdさんの予告どおり烈風がバージョンアップしたとの事で早速DL&インストール。
いやはや・・・もうなんと言ってよいやら、本当にありがとうございましたとしか言えないと言うか、ありきたりな言葉しか言えない自分がでホントに歯がゆい。
それにしてもクリエイター系シマー達の団結力と、このこだわりは素晴らしい。

IL-2やLOMACの場合はMODと呼ばれてますが、私が最初に遊んだMSFSの場合だとADDONと呼ばれてました。
呼び方は違いますけど内容的には同じです。
機体モデルやリペイントデータとかですね。
MSFSの場合だとSceneryと呼ばれる風景や建物なども人気で、文字通り世界中の”場所”が無料で公開されています。
IL-2で言うところのMAPですね。

有料のものもあるんですけど、私はなぜか無料な方が好きでした。
作者の”想い”みたいなものが詰まってる感じがするので。
手弁当で作ってる感じが伝わってくるのが良いのと、上の烈風のように皆で改良してより良いものを目指していく感じが好きだったんですよね。

画像1
– 妄想全開の343空所属の烈風 – 隣には随伴の紫電改 –

菅野大尉が瑞鶴で離着艦テストをしている様子。
隣の紫電改の操縦桿を握るのは343空飛行長の志賀少佐。
さすがの菅野大尉も飛行甲板の狭さに驚いたかもしれない。
随伴機の志賀少佐は古巣の空母に戻って来て意気軒昂。
久しぶりの里帰りに鼻歌交じりでエンジン始動の合図を送る。

な~んて勝手な妄想全開で遊べるのもMOD=Modifyできる自由があるからなんですよね。

今回施された改良で翼の折りたたみが可能になった。
元々艦上機ですからね。
この妄想のように空母と搭乗員さえいれば機動部隊に配備されていたのかもしれない。

画像4
– 試作機カラーの紫電改と烈風 – 私は試作機とか好きなんですよね –

試作機って人のぬくもりと言うか、作り手の想いみたいなのが感じられて好きなんですよね。
量産型に比べると不恰好だったりするんだけど、またそこが良いんですよ。
試行錯誤を繰り返す感じとでも言えば良いのかな?
上手く説明できないけど、なぜか昔から試作機が好きなんですよね。
未完成・・・ってのに惹かれるのかも。

ところで烈風の試作機もこんな感じの色だったんですかね?
完成前に終戦を迎えた機体なので写真とかも少ないですし、実機も残ってないみたいですね。
アメリカに残ってるって噂があるらしいですがどうなんでしょうかね?

残ってたら是非見てみたいですね。

余談ですが、堀越二郎、奥宮正武(著)零戦と言う本がありまして、その中に烈風に関する記述があります。
それなんかを改めて読み返してみますと当時の苦労が垣間見れたりします。
印象的だったのは、烈風の設計に携わっていた頃の堀越さんは、零戦の設計に携わっていた頃の堀越さんとは別人だという事です。
96艦戦の成功による体の芯から湧き出る自信と、更に新しい技術へのアプローチに胸を躍らせながら線図を引いた”あの頃”とは違っていた事がこの本から読み取れます。

度重なる零戦の改造作業と、雷電の振動問題等、堀越さんを忙殺する作業は数多く、神経をすり減らしながらの作業は困難の連続だったと思います。

画像6
– さしたるタービンの効果なし – 高度1万メートルで排気タービンの試験をする烈風改 –

※遊びでタービン付けただけなので、良い子のみんなはあんまり見ないようにね。

 
仕事をする上でモチベーションって大事ですよね。
でも、あの頃の堀越さんにはそれが無かったように感じられました。
軍からの度重なる零戦の改造指示にはじまり、自分から提案した金星エンジンへの換装を一度は拒否され、「格闘戦は重視しなくて良い」と言われて設計した雷電を「空戦性能が低い」と酷評され、格闘性能では零戦と同等と言いながらも初期型の零戦より時速100キロも優速な戦闘機を作れと言われたってね・・・

優秀な人に仕事が集中してしまうオーバーワークって、今の日本にも当てはまりますよね。

一言で言えば人材不足なんですが、いくら天才とは言え無限に湧く魔法のツボの如くアイデアは湧いてきませんからね。

例えは変かもしれませんが、あの天才バッターイチローだって4割も打てないわけですから。
残りの6割以上は三振かアウトになってる訳で、そう毎回毎回ヒットは打てませんよ。
堀越さんだって96艦戦、零戦と文字通りヒットを飛ばした訳ですが、その後の雷電や烈風はどうだったか・・・

ただ、これは堀越さんだけの問題ではないですよね。
むしろ、発注者側の軍部に問題があったと思います。
コンセプトを絞りきれてない訳ですから・・・

もっと基本的な事を言ってしまえば、当時の日本には戦争を戦いながら新兵器を開発する力は無かったと言う事だと思います。

画像3
– 翔べ烈風 –

柳田邦男(著)零式戦闘機のまえがきにも堀越さんの苦労が垣間見えます。
日中戦争はいざ知らず、アメリカを相手に戦った太平洋での戦いでは常に敵に比べて2割以上低い馬力のエンジンしか選ぶ事が出来なかった設計技師の苦悩が感じられます。
更に言えば、そのエンジンさえ大戦末期では未完成の状況で機体を設計しなくてはならず、ようやく完成を見たエンジンも終戦間際の物資が枯渇し始めた劣悪な状況では予定した出力すら満足に出せず・・・
状況的に言えば八方塞な中、出口を求めて暗中模索の作業が終戦まで続いたわけですよね。
こんな状況でモチベーションを維持するのは大変だったと思います。

8月15日の空は堀越さんにはどのように見えたのでしょうか。
私の祖母は東京でその日を迎えたそうです。
「空が物凄く青くて、どこまでも高かった」と言っていました。

これは実際の天気も良かったそうですが、むしろ精神的なものが大きく作用したものだと思われます。
それまでは安心して空を眺める事も出来なかったでしょうしね。
それに、子供ですから敗戦の重みを理解できなかったと言う事もあったと思います。