亡国のイーグルのあとがき・・・のようなもの

昨日帰って来まして、しばらく振りに我が家に戻ってくるといつも思うんですが、なんか新鮮と言うか違和感と言うか。
わかりますかね?自分の家じゃないような感覚になるんですよ。
部屋の中の匂いと言うのも普段は気がつかないんですけど、しばらく振りに帰ってくると感じんるんです。
別に臭いわけではないんですが、それに、埃っぽいと言うか、掃除して出かけても一週間とか10日とか空けて帰ってくるといつも思いますね。
なので帰ってきてから掃除してました。

あと、今回特に感じたのは音ですかね。
自然の音のみで生活していたので、空港に着いた時に感じた違和感と言うか、雑踏のうるささには驚かされました。
如何に都会がうるさいかがわかりましたね。
私は東京生まれなので自然に対して飢えていると言うか、憧れのようなものがあって、たまにこうしてリセットする意味もあって自然の中に身を置くようにしています。
ただ、虫が苦手なので、夏にキャンプは辛い・・・なのでちょっと寒いですがこの季節にした訳です。
沖縄とかね・・・住んでみたいけどGがね・・・ダメなんですよ。
虫は全般的にダメです。
爬虫類は平気です。
トカゲとかカワイイし。
でも虫はダメ。
でも、なぜかGの写真集は持っています。
Gの生態について調べている時に買ってしまったんですが、今現在は紙袋に入れて押入れのどこかに放置してあります。
なにせ表紙がGのアップなので、本に触るのも嫌なのです。
なぜ買ってしまったのか・・・それに買った当初は好奇心の方が強いせいか読んでても全然平気だったんですがね。


– これがやりたかっただけと言っても過言では無い? –

さて、先日公開した亡国のイーグルについて書きます。
きっかけは以前にも書きましたがF-2のリペイントをしていて資料の意味もあって映画”亡国のイージス”を見た事がきっかけでした。
映画に関しては( ´・_・`)な感じな訳ですが、予告編がカッコ良くて何度も見てるうちにビデオを作りたくなったので作ってみました。
ホント軽い気持ちで作り始めたものなので公開するほどのものでは無いのですが、このビデオがきっかけで次回作が決まったのでお祝いって事で公開しました。

一番苦労したのは例のテキストアニメーションで、正直言うとこれを作ってみたくなったのが創作への動機付けみたいなものですかね。
これは本当に苦労しましたね。
パッと見簡単そうですが意外と面倒な事をやってまして、AEで作れば楽なんでしょうが苦労しました。


– 平泉 成さんに叱られてみたい –

LOMACのシーンの大半はPracticeを作っていた時に使用しなかった没カットを使用してますし、IL-2のシーンも実は違う未公開ビデオのシーンから拝借しています。
実は私は数年前から公開を前提としていない作品をいくつか作っています。
ライフワークのようなもので、人の死について考えた作品です。
と言いましても、ここで言う人の死とは”戦死”の事です。
特攻をテーマにしたものなので非公開としています。
人の死を軽く扱うような人には見せたくないので。


– 戦後、命の尊さを叫びながらも、命をかけて戦った兵士達を裏切り続けた日本人 –

いくつかのシーンはそれらの動画から拝借して使いました。
なので今回はあまり撮影してないせいもあって、製作期間は二日間くらいでした。
その大半は例のテキストアニメーションに費やされたわけですが┐(゚~゚)┌

まぁ言いたい事は山ほどあるんですが、かなりオブラートに包んだ動画ですね。

米国の象徴たる鷲の事、その名前を冠せられたF-15 EAGLEの事、それゆえの日米関係、さらには集団的自衛権やらなんやらを含めた国防と、それを司る政治、そしてそれを遂行する自衛隊の置かれている現状。
はたまた、それを漫然と受け入れて暮らす日和見主義の日本人に対してなどなど、書き始めたら何のblogだから訳判らなくなるので自重します。


– さしたる戦略も無いまま戦争に突入し、最後は若者に体当たりさせた –

歴史は繰り返すとも言われていますが、どうなんでしょうかね?
私が生きている間は戦争は無いといいな。
でも、そういう願いとは裏腹に事が進むのが現実なのかもしれませんが。

SAMURAI DRIVEと言うビデオを作った時の事ですが、自衛隊の方々から何度かメールを頂いた事がありました。
「YouTubeとか見れるんですね」と聞いたら逆に驚かれてしまった。
結構自由らしいです。

その時にも話をした事ですし、これは共同制作者の方にも話した事なのですが、私が思う自衛隊とは真のサムライであって欲しいと。
私が思うサムライのイメージとは、やたらめったら刀は抜かないのだと。
サムライがいるだけで相手に対して睨みは十分に効くのだと。
だから腰にさげた刀はめったな事では抜かないのだと。

でも、もし主君の命が脅かされれば、または町民の命が脅かされれば自らの命に変えてでも敵の命を奪うのだと。
だからこそ、町民(国民)はサムライに武器の携行を許しているのだと。
制度として、武器の携行をゆるしているのだと。

だからこそ我々に出来る事はサムライを信じ、刀を抜く事を認める事なのだと。
そして、その結果起きた事の責任を皆で応分に担う事なのだと。

だが・・・悲しい事ではあるが現実は違うのだ。

余談ですが日本の原発は事故を起こさないのだと言われて来た。
事故は起きないのだから想定する必要は無いのだと。
だが事故は起きた。
今まで原発のげの字も口に出さなかった連中が、地球温暖化の為にクリーンな原発をと言っていた連中が、事故が起きたら手のひらを返したように原発に異を唱えだしたのには笑ってしまった。
なぜなら放射能は事故が起きる前から危険な存在だった筈なのに。

どこかで見たような聞いたような・・・

平和憲法があるから戦争は起きない。
だから自衛隊は要らない。
そもそも戦争は起きないんですから想定なんて必要ないんです。

果たしてそうだろうか?
平和憲法さえあれば戦争は起きないのだろうか?
不戦の誓いさえ立てていれば、どこの国も攻めてこないのだろうか?


– よく見ろ日本人、これが戦争だ – ロシアは何をし、アメリカはグルジアに何をしたか? –

そもそも先の大戦のようなものだけが戦争だと思っていないだろうか?
グルジアはどうなった?
チェチェンは?
チベットは?
ウイグルは?
パレスチナは?
南沙諸島は?
そして尖閣や竹島、北方領土は?

戦争の概念すら変化しているのに、70年前に受けたショックを今も引きずり、現代では意味を成さなくなったお題目を唱え続けてさえいればそれが平和だと言えるのだろうか?

もし仮に日本が戦争に巻き込まれたらどうするのだろう?
平和憲法と言う名のお題目を守る為なら、自衛官は殉職しても良いのだろうか?
反撃する事も許されずに犬死する事が平和を守ると言う事なのだろうか?

70年前、何の戦略も無いまま戦争に突入し、当初の目論見であった早期講和への道は閉ざされ、無謀な作戦で玉砕を繰り返し、最後は若者に爆弾を抱えさせて体当たりを命じたかつての日本人と、平和憲法を唱えるだけの連中に果たして違いはあるのだろうか?

現実を直視せず、己が為の無責任な理想を他者に押し付けている点で同じだと思うのだ。
特攻隊員に向かって、敵艦にぶつかるまで目を閉じるなと命令した者と、国際法上何ら問題の無い交戦権を自衛隊に与えず、まるで平和憲法を守るために為に犬死せよと言わんばかりの連中にどれほどの違いがあると言うのだろうか。

と言う事でガス抜きも兼ねて適当にツラツラと書いて来ましたが、こんだけ書いておけば少々ネットの馬鹿を見ても「ムキー」っとならずに済むだろう。
SAMURAI DRIVEの時には、ついネットの馬鹿の”自衛官の命”を軽視する発言を見て「ムキー」っとなってしまい、とあるシーンを無理やり作り変えた経緯がある。

ホント・・・共同制作者の人には申し訳ない事をしたと思う。
でも後悔はしていない。
魂を売り渡すような真似だけはしたくないのだ。

でも今後は・・・と言うかVBIさんの動画を作っている間は「ムキー」っとしないように気をつけたいと思う。
あんまり書いていると、それだけで「ムキー」っとなるのでこの辺で。

という事で、この話題はこれでおしまい(・ω・)ノ

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