2011年 5月 12日 の記事

とりあえず仕込み開始

例のサポートからのメール待ちの状態に少々飽き始めた私。
する事がないので仕込みを再開していみた。


– 西沢機と太田機 –

本当にコレで正解か?と問われれば「知りません」と答えるしかない。
それくらい当時の資料は少ない。
仮に機体番号が正解だとしても、機体の色、書体、帯の数、帯の色等々、カラー写真でも無い限りさっぱり分かりません┐(゚~゚)┌
それに、陸上基地の搭乗員には愛機と呼ばれる概念は無く、その都度違う飛行機に乗っていた訳で、どの作戦の時にどの飛行機に乗っていたのかを記した資料もネット内で見つける事は出来ませんでした。
もちろん、その中でも”良く乗った”機体はあったようなので、それを愛機と呼ぶ事はあったらしい。
細かい事を言えば、それも戦中からなのかそれとも戦後になってから便宜上そう呼ぶようになったのかは分かりません。

案の定と言うか、今回も海外のサイトが頼みの綱だったのは悲しい限り。
日本のサイトはいつものパターンで途中からあらぬ方向へと行ってしまう。
「祖国の為に命を捧げた英霊達に感謝!!」とか何とか書いてあった後に、いきなり幼女の裸のイラストとか出てきて「〇〇タン」とか何とか書いてある。

きっと草葉の陰で泣いてるよ・・・英霊達も。


– 西沢広義 享年24 –

いつの頃に撮られた写真かは定かではありませんが、とても24歳には見えません。
命を懸けると言う事が、この若者にどれ程の重圧を与えていたのかが分かる写真です。
”老ける”と言う事ではなくて、貫禄のような物だと思われます。


– 飛行服に軍刀 –

こちらの写真もいつ頃撮られたのか定かではありませんが、上の写真と比べるとまるで別人のようです。
時期的な事もあると思いますが、赴いた戦地によっても置かれた状況は違うので何とも言えません。
比較的余裕があった頃に撮られたものだと思われます。


太田敏夫 享年23 –

坂井三郎さんによりますと(Wikipediaより引用)

「(太田は)色白の好青年で、いつもにこにこしていて、どちらかというと、おとなしい男でしたが、実戦には強かった。(中略)あばれん坊のそろっていた戦闘機隊では、ちょっと珍しい貴公子的な存在でしたね。」
だそうです。
写真からもそんな雰囲気が伝わってきます。
実戦にも強かったと書かれてありますが、その片鱗を大空のサムライの中にも読み取る事が出来ます。
台南空が5機のB-17を全機撃墜した時も、太田さんがB-17を撃墜する様子が書かれています。

今回調べていて初めて知ったのですが、元々は戦艦金剛勤務だったんですね。
坂井さんも元々は戦艦霧島、戦艦榛名勤務だった。
硬直した人事と思われがちな旧日本軍ですが、下士官達にはこうして選択していく道も細いとはいえあった訳ですね。
尤も、今より遥かに職業選択の幅が狭かった時代なので、本人の努力があっての事なのは言うまでもありません。
その努力の一端は、大空のサムライを読む事で垣間見る事が出来ます。
坂井さんがパイロットになる為にどれだけの努力をしたか、さりげなく書かれていますが大変な努力があった事は想像に難くないと思います。


– 在りし日の台南海軍航空隊 –

職業選択の自由が叫ばれて久しい昨今ですが・・・

私を含めて、現代の若者が自分の仕事に就くのにこれだけ努力した事があるでしょうか?
私を含めて、現代の若者が自分の仕事にこれだけ真剣に向き合った事があるでしょうか?

口を開けば上司の悪口や会社の悪口。
さしたる努力もせず、上手く行かないのは社会が悪いと言い、自分のおかれた状況が悪いのだと言う。
他人の失敗を笑い、自分は何もしないで他人の揚げ足を取る。
口だけ達者な人々が溢れ、知識自慢の頭でっかちがネット内を跋扈する。

英霊達は何を思うのでしょうか。